• 前自由民主党副総裁
    弁護士

    高村 正彦(こうむら まさひこ)

  • 前自由民主党副総裁で、経済企画庁長官や外務大臣、法務大臣、防衛大臣などの要職を歴任された高村正彦さん。フォーラムエイトの特別顧問に就任いただいたのを機に、連続インタビューを実施。前号(131号)より「高村正彦の政治外交講座」と題し、連載をスタートしています。
    複数回にわたるインタビューを通じ、氏の弁護士あるいは政治家としての多様かつ貴重な経験に基づくお話を誌上にて再現。その政治や外交に関わる独自の視点にも迫っていくことを目指します。
    その連載第2弾では、自ら政治の師と仰ぐ父の戦前・戦後を通じた文官や政治家としての足跡、その一方で弁護士として歩み始めた高村さん自身の政治との関わり、初めて臨んだ選挙での当選から初入閣、その後の政治家として経験されたことなどへと話を進めていただきます。

戦前・戦後を通じ理想主義貫いた父の描く政治家像

「政治は立派な仕事だと、子供の頃からずっと思っていました。ただ、(自ら)政治家になろうと思ったことは、全くありませんでした」。前編(連載第1回)でも触れたように、物心が付くようになって以来「(自身には)努力するという能力が欠如しているのでは」という劣等感を持ち続けていた、と語る高村正彦さん。そのような自分が、立派な仕事と信奉する政治に携われるはずがない、との思いを長く拭えないできた、といいます。


戦前・戦後を通じ理想主義貫いた父の描く政治家像

「選挙に受かって(議員)バッジを付けていても『政治家』でない人はいっぱいいるし、選挙に落ちても国民のことを考え、そのために一生懸命に働いている人は『政治家』だ」。高村さんの父・坂彦氏がよく言っていたというこの言葉も、父を知らない人が聞けば「選挙に落ちた者の負け惜しみか」と思われるかも知れない。それでも高村さんは、そう思わなかった。むしろ「下僕に英雄なし」と言うが、逆に氏にとって父は立派な政治家であり英雄だった、と振り返ります。

山口県三井村(現・光市)に生まれた坂彦氏は苦学力行の末、高等文官試験を通り、内務省に入省。同省在職時には近衛文麿内閣(第2次・第3次)の総理秘書官を務め、世の中が太平洋戦争突入へと深く傾斜する中、開戦阻止を模索する首相を補佐。開戦後はその終結に尽力しました。東条英機内閣が発足した時、引き続き総理秘書官をと請われるも固辞し、愛媛県警察部長に転出。翼賛選挙では東条内閣の干渉が強まる中、公正な取り締まりを敢行。検挙された非推薦候補の関係者を釈放し、その非推薦候補が当選したことなどもあって警察の職を離任。次いで就任した国土局総務課長時代には職務上、物資不足の面から戦争継続の困難さを実感。安藤紀三郎内相に戦争終結を訴える上申書を提出するなど、子供の頃の高村さんの目にも時に現実離れして映るほどの理想主義を実践していました。

戦後は日本の再建を期して国政に進出。2度の落選を経て衆議院議員となるもその後も2回続けて落選したところで市政に転じ、徳山(現・周南)市長を4期務めた後、再び衆議院議員として復帰。その後の落選を受け(国政に限れば通算2勝5敗の戦績で)政界を引退します。


弁護士から政治家へ

一方、高村さんの司法修習生時代、自衛隊員が制服で成人式に出席しようとして追い返されるという事件が続発。方向が反対とは言え、戦前の軍国主義的風潮と同様の極端な振れを懸念。「振り子を真ん中に」戻すべきとの考え方が自らのベースに形成されてきました。

そのような流れもあり弁護士になって間もなく、自民党の顧問弁護団「労政法曹団(現・自由民主法曹団)」に加盟。また、大学の先輩で科学技術庁長官秘書官だった沖村憲樹氏の提案から、高村さんの弁護士事務所で定期的に主要官庁のメンバーが参加する政策勉強会を開催するようになっていました。

坂彦氏が1979年の選挙で落選して引退を決意。派閥領袖の三木武夫氏の助言もあり、高村さんに後継を打診。ただ冒頭のような理由から高村さんが固辞、坂彦氏の後援会は解散します。ところがその7か月後、自民党内の派閥抗争に端を発し、大平内閣の不信任案可決と「ハプニング解散」を受けた衆議院選挙に直面。沖村氏らの強い勧めなどに接するうち、「今回が唯一無二のチャンス」との閃きから突如出馬を決意。当時、定員5名の中選挙区でメディアはもちろん周囲も劣勢を予想したのに反し、初めての挑戦で3位当選を果たします。


政治の要諦と政治家の仕事

当選5回の時、高村さんは自社さ連立政権の村山内閣で経済企画庁長官として初入閣(1994年)。その後、第2次橋本内閣で外務政務次官は閣僚経験者を起用するとの方針の下、氏に打診。子供の頃に父から「内政の失敗は一内閣が倒れれば足りるが、外交の失敗は一国を滅ぼす」と教えられていたこともあり、これを受諾(1996年)。池田外相を補佐しつつペルーの日本大使公邸人質事件をはじめインドネシアの金融危機や東ティモール問題、カンボジアでの総選挙実施など様々な難題解決で活躍。「日本のトラブルシューター」の異名を取るに至っています。


池田氏の後任の外相を務めた小渕氏が1998に総理大臣になると、「私よりバランス感覚がある」との言葉とともに高村さんを外相に指名。その後、第2次森改造内閣で法務大臣(2000年)、第1次安倍内閣で防衛大臣(2007年)、福田内閣で再度外務大臣(同年)、さらに第2次安倍内閣では自民党副総裁(2012年)に就任します。

「努力する才能のなかった私が政治家として努力できたのは、政治というのは毎日新しい課題が出てきて、それに(毎日努力して)対応しなければならないから」。その一例として高村さんは安全保障の問題に言及。日本人は戦争体験があるため、「侵略しない国になりたい」と同時に「侵略される国にもなりたくない」と願うはず。つまり「政治の要諦は、大多数の日本人の真の願望を実現することで、その手段についてはプロである政治家が考えること」と説きます。

(執筆:池野 隆)

  • 高村正彦氏プロフィール

    昭和17年生まれ。山口県出身。中央大学法学部を卒業後、弁護士として活躍。55年の衆院選で初当選し、経済企画庁長官、外相や法相、防衛相を歴任。平成24年の第二次安倍内閣誕生時から自民党副総裁を務め、集団的自衛権の限定行使容認や憲法改正等で党内議論を主導した政策通として知られている。29年に国会議員を引退されたが、30年10月までの党副総裁の要職につかれ、その通産在任日数は歴代第一位。現在は、自民党憲法改正推進本部の最高顧問として奔走されている。

  • 著書

    私の履歴書 振り子を真ん中に

    著 高村正彦/発行 日本経済新聞出版社

    現実的に合理的に何が国益かを考える。外交・安全保障で活躍してきた自民党副総裁が、自らの原点から、37年余の議員生活まで回顧。生々しい証言の数々から、政治の実相が現れる。

(Up&Coming '21 新年号掲載)