本明川は、その源を長崎県諫早市五家原岳(標高1,057m)に発し、多良山系の急峻な山麓を南下し、湯野尾川・目代川などの支川を合流して下流の諫早平野を潤し、福田川、半造川を合わせて有明海に注ぐ、幹川流路延長が僅か28km、流域面積も僅か249km2の一級河川です。249㎞2は10㎞×5㎞の長方形に相当します。これ程小規模な一級河川なのです。これらから本明川は非常に珍しい一級河川であるといえます。
諫早市は、昭和33年7月25日、梅雨前線の停滞に伴い午前9時頃から集中豪雨に見舞われ水防本部を設置しました。午後3時には本明川は警戒水位を超え、市は午後6時50分1回目の、午後7時30分2回目の避難命令を発しました。午後8時頃になると上流では土石流が発生し、午後9時30分本明川は氾濫、3回目の避難命令サイレンが鳴り響きました。直後に市内は停電し、一切の通信は途絶えました。猛烈な雷雨で本明川は濁流となり市内に流れ込みました。深夜12時頃、ようやく水が引き始めましたがこの水害で諫早市では539名の命が失われました。当時の推定人口11,1000人の約0.5%に当たります。戦後最大の被害をもたらしたと言われる伊勢湾台風の被害は死者5100人で、当時の名古屋市の推定人口1,5000,000人の0.034%でした。これに比べて、如何に本明川での被害が甚大であったかが分かります。筆者が中学1年の時に諫早大水害は発生しましたが、この災害ことは学校でも大きな話題となったことを今でも鮮明に覚えています。
被災4日後、大村駐屯地から派遣された自衛隊員が給水活動を行い、真っ先に飲料水の確保を実施しました。これらの救助活動により、これまで色々な意味で色眼鏡で見られていた自衛隊の印象が、国民の間で変化したのではないか思われます。後述の「諫早大水害50周年記念誌」には、自衛隊の活動の様子が数多く載せられています。
また、被災当時7歳だった方が災害をどのように受け止めていたか、50年経ってどのように感じているかを詳細に語っています。
諫早市は水害50周年を記念して、平成19年7月「諫早大水害50周年記念誌」を発刊しました。この中で、当時の吉次邦夫市長は以下のように宣言されています。(前略)「災害はいつ何時起こるかわかりません。私の市長としての基本は安全・安心なまちづくりです。そして最大の責務は、市民の生命・財産を守るということです。それにはまず防災。現代の地球温暖化や異常気象にもしっかり備えていかなければいけません。50年が経った今、あの日のことを風化させることなく、今一度この歴史を再認識し、災害に強いまちづくりをさらに進めていきます。」
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写真1 諫早大水害50週年記念誌(左)と被災者の母子手帳(右)
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写真2 被災直後の本明川。画面右は流木をせき止め被害を大きくした眼鏡橋
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写真3 自衛隊員の復旧活動の様子
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