vol.11

スポーツ文化評論家 玉木 正之(たまき まさゆき)

プロフィール

1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、 映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

コロナ後のスポーツ界~
新型コロナウィルスCOVID-19の蔓延が過ぎ去ったあと、スポーツ界は、
どんな姿に変化しているのか?また、どんな姿に変化すべきか?

新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延で、高校野球の春のセンバツ大会の中止に続いて夏の甲子園大会の中止が決定された。そのとき、ある高校野球部の監督がテレビのインタヴューを受けて、次のように語った。

「今年は仕方がないとしても、ウイルスの蔓延が一日も早く終息し、コロナ前の日常が戻ることを心から願いたい」

この言葉を聞いて、私は即座に、「違う」と思った。心情的には理解できる。が、せっかくの休息期間が生まれたのだ。春季大会、夏の予選、甲子園大会、秋の新人戦と、一年中続いていた高校野球の試合が、練習試合も含めて中断されたのだ。ならば、この期間を無駄にすることはない。今こそ高校野球は、このままでいいのか? コロナ前に戻っていいのか?……を、考え直すべきではないか?

地球規模の温暖化のなかで、日本国内でも最も暑い地域と言える関西地方の甲子園で、夏の全国大会を行う必要があるのか? 北海道などの涼しい地域に移すことは不可能か?また、夏の地方予選を、多くの高校の1学期末の試験期間に行っていていいのだろうか?

高校野球のすべての試合がトーナメントで、1度の敗戦で試合を終える学校が、全高校約4千校のうちの半分もある。そんなやり方でいいのか? それが教育的と言えるのだろうか? 地域や実力レベル(過去の成績)で区分してリーグ戦を行うことは不可能なのか? 女子高校野球への支援は考えなくていいのか?……などなど、改革案は山ほど思い浮かぶ。

そのような改革にはカネがかる、というのであれば、今は無料のNHK、朝日放送(夏の甲子園)、毎日放送(センバツ)の放送権料の有料化(独占化)するのも一案だろう。視聴率に見合う(おそらく莫大な!)放送権料を得るであろう高等学校野球連盟(高野連)は、その資金で北海道の根室や釧路の近辺に甲子園とそっくりの球場を建設することも可能だろうし、毎年その涼しい場所で全国大会を開催すれば、地方創生にも寄与できるのではないか?

あるいは全国的に人気の高い高校野球の放送権料や高校野球グッズのライセンス料等を利用して、全国の高校の部活動を支援したり、高校生スポーツの環境整備も行えるはずだ。

高校野球は教育だと言っても、集まるお金を高校教育に還元するのであれば、何も問題はあるまい。アメリカでは大学のスポーツ組織NCAA(全米大学体育協会)が、極めて人気の高い大学のアメリカンフットボールやバスケットボールによる利益を活用し、他の多くの大学スポーツへの援助に利用している(と同時に学生スポーツマンの勉学義務規定なども定めている)。

我が国でも、これを真似て「日本版NCAA=大学スポーツ協会UNIVAS」を昨年3月に発足させた。が、まだ一般的に知られておらず、箱根駅伝や大学ラグビーから得られる収益の配分など、不明瞭な点も多い。

が、同様のことを高校野球を中心に、高校ラグビー、高校サッカー、高校バレーなども巻き込んで行えば、大学スポーツ以上に人気のある高校スポーツから、高校生の教育環境やスポーツ環境を整えてゆくことも可能なはずだ(それにはNHK、朝日・毎日両新聞と高校野球の関係や、日本テレビと高校サッカー、毎日放送と高校ラグビーの関係を見直す必要がある。が、メディア=ジャーナリズムが高校教育の発展の邪魔はできないはずですよね)。

もちろん高校スポーツだけではない。コロナ後のスポーツ界、コロナ後の社会を見据えて「新しいスポーツ様式」を打ち立てるには、今が絶好のチャンスと言えるだろう。

1年延期となったオリンピックも「改革」に手をつけることができるはず。延期決定の当初は安倍首相が「完全な形」での開催を主張したが、コロナ禍の終息が見えない最近は組織委員会も「縮小プラン」を考え始めたようだ。

1964年の東京オリンピックが20競技163種目に、93カ国5152人の選手が参加したのに対して、来年の大会には33競技339種目に、1万2千人以上の選手の参加が予定されており、コロナ禍が存在しなくても、その肥大化と経費の高騰には多くの非難があがっている。そして縮小化を望む声は、IOC(国際オリンピック委員会)の委員のなかからもあがっていた。

なぜオリンピックはこれほど肥大化したのか? それはIOCがオリンピックの人気を高めるため(スポンサーとテレビ局から高額の資金を集めるため)世界的に人気の高い(TV映りの良い)競技を増やし続けてきたから、と言える。テニス、マウンテンバイク、BMX(自転車モトクロス)、9人制ラグビー、トランポリン、アーティスティックスイミング……など、1964年には存在しなかった競技が増え、さらに来年は、野球、ソフトボール、空手という日本で人気の競技と、サーフィン、スポーツクライミング、ローラースポーツ(スケートボード)など、若者に人気のある(高いTV視聴率が望める)競技が加わった。

が、オリンピックは世界一のアスリートを決める世界選手権や、世界一の競技団体(国)を決めるワールドカップとは異なり、世界平和を実現するために行うスポーツによる平和運動である、ということを忘れてはならない。

IOCは、「世界最高レベルのアスリートが、あらゆる競技で大勢集まるからこそ、世界に注目され、世界平和のメッセージも強くなる」と言う。が、その意見は正しいか? 今日のオリンピックが、どれほど世界平和に寄与していると言えるのか?

メダルを取るため(好成績を残すため)選手村に入らず、専用ホテルを借りる国もあれば選手もいる。そんな諸外国の選手との友好を拒否するような選手が、オリンピックに参加していいのだろうか?

そういったことを考えるなら、コロナ禍をきっかけに、競技数や出場選手を減らすことも一案だろうし、選手村に入村しない選手の参加を拒否してもいいだろう。また、ゴルフ、テニス、サッカー、ラグビー、野球など、オリンピック以上に大きく注目される大会のある競技は廃止を考えるのもいいだろう。

柔道やレスリングなど濃厚接触で実行を危ぶまれる競技は、PCRなどの検査に合格した選手による子供たちへのワークショップの開催などでも、オリンピック本来の目的(世界平和)は達成できるはずだ。

高校野球もオリンピックも、そしてあらゆるスポーツも、不要不急の行為にほかならない。ならば、コロナ禍を機会に、改めて何のために行うのかを考え直せば、コロナ以前のスポーツ界よりも、もっと素晴らしいスポーツの世界が生まれるはずだが……。

(Up&Coming '20 盛夏号掲載)