このコーナーでは、フォーラムエイトの社内報「はちみつ」から、国内各所の旅エッセイと映画に関するふたつのコラムを毎回紹介していきます。

…… タイトル「はちみつ」に込められたメッセージ ……

スイートで栄養満点なコンテンツが詰まった「はちみつ」8 meet you を文字ってこのタイトルにしました。 8(FORUM8)が社員や社外の方と触れ合い、グループ、チームの仕事を理解し、目標達成に向けて日々活動していくことが私達の理念です。

今回は、山形県の山形市、鶴岡市をご紹介します。
その土地の秘話や関連人物のエピソードに軸足を置いた話題を提供します。

わが家には毎年、初夏にはサクランボが、晩秋にはラ・フランスが山形県から届きます。フルーツ王国・山形県をあらためて認識するときです。その山形県に旅好きの私が、たったの1度しか足を踏み入れていないことに気づいたのが還暦を過ぎたころでした。ほかの東北県はどこも何度か訪れているというのに。これでは山形県に申しわけないということで、2度目の訪問を果たしたときの記憶を手繰り寄せて綴ったのが本稿であります。今回は、とくに山形市と庄内地方に絞った語りです。

山形市の街並み

歴史の本をひも解いていると、山形という地名は、左遷や流謫の地として登場することで発見します。江戸初期、沢庵和尚が紫衣事件で流された先が上山藩であり、江戸後期、天保の改革で失敗した水野忠邦が左遷で転封されたのが山形藩。明治初期、自由民権運動に絡んで政府転覆を謀ったということで陸奥宗光が投獄されたのが山形監獄という具合に。

そんな歴史上の負のイメージも、山形市の中心部を歩いてみれば全く払拭されてしまいます。こんな垢ぬけした地方都市があったのだと驚いたぐらいです。江戸時代、山形藩があった所ですから、もちろん城下町だったのですが、その匂いがほとんど感じられません。同県内にある米沢、鶴岡のように長く同一大名家の統治下にあった藩ではなく、江戸初期から幕末に至るまで大名家の入れ替えが激しかった藩なのでした。その入れ替え数が十数回といいます。それが原因で城下町としての土着風土が根付かなかったのでしょう。

むしろ、「ひと月の儲けで1年暮らせる」とまでいわれた紅花商売に影響を受けた商都としての顔を持つ山形市なのでした。それにしても、街中のメインストリート・七日町通りの街並みのモダンさが気になります。この由来を求めると、ある1人の人物にいき当たるのです。

山形市 旧済生館中庭

はりきった土木県令

19年度のNHK大河ドラマ『いだてん』の放送初期のころ、主人公・金栗四三とともにオリンピック初参加日本人として、生田斗真演ずる三島弥彦という人が登場していましたね。彼は日本スポーツ史に名を残しましたが、彼のオヤジさんは日本史の教科書に名を残しました。自由民権運動を弾圧した鬼県令としての記述のはずです。そのオヤジとは、大久保利通に引き立てられた三島通庸のことです。歴史を教科書だけで終わらしている人では、おそらく三島通庸には負のイメージが残っているでしょうか。たしかに彼は、出身の薩摩閥を背景の強権政治家だったのですが、悪代官イメージの烙印が押されるのは、福島県令時代に起こった福島事件以後ではないかと思います。しかも、人生の最期には、これまた警視総監という弾圧側の役職についていたものですから、なお一層のことです。

山形県は山国でしたから、東京へ出るのに陸路では福島県への山越えを、海路では宮城県への山越えをしなければ行けませんでした。山形県令に着任するなり、三島は新道の開削工事を強引に推し進めました。そして、街中には、県庁、師範学校、病院、警察署などの近代的建物を次々と建てるのでした。この名残が、現在、七日町通りを歩いて感じる、どこか瀟洒な街並みの匂いなのです。

ところで、三島には意外な人物との接点があります。洋画家・高橋由一のことです。日本史の教科書の口絵によく使われていた、身の半分を裂かれた鮭が縄で吊るされた絵画を覚えておられないでしょうか。あの油絵の作者が高橋由一です。高橋が東北を巡遊した際、三島のところを訪問したのがきっかけで、三島は、彼の手掛けた建設作品の記録画として、高橋に作画依頼をしているのです。その中には、七日町通りを挟んだ両側に瀟洒な建物が並んだ『山形市街図』があります。これが、「明治14年ごろの地方都市の風景か」と目を疑うほどの近代さです。

作者 高橋由一
『鮭図』(左)『山形市街図』(右)家

庄内と鹿児島のつながり

車で山形市から庄内地方に向かうには、出羽三山の月山、湯殿山の横を走る山形自動車道を利用するのが最適ルートなのでしょうが、私は前日、山形市北方の銀山温泉に宿泊していたせいで、JR陸羽西線に沿うように車を走らせました。すると、鶴岡市に入る少し手前で「清川」という地名を目にします。幕末の一代の策士・清川八郎の出生地です。「舌三寸の囀り、五尺の身を亡ぼす」とは、彼のためにあるような言葉です。江戸で、幕府側の護衛の役目として集めた浪士団を引き連れ京都に入り、「じつは、攘夷決行のための組織だ」と陰謀を明かすのでした。ここで二派に分かれ、京都での残留組が新選組となり、江戸へ戻ったUターン組が新徴組となったのは、よく知られた話です。

清川が庄内人だったせいなのか、新徴組は結局、庄内藩・酒井家のお預かりとなります。これが、幕末から明治初期にかけて、鶴岡と鹿児島との間のちょっとした歴史絵巻となっていく因縁の元となったのです。新徴組による江戸・三田の薩摩藩邸の焼討事件、薩長藩へ対峙するための奥羽戦争への参戦、降伏後の寛大処置による西郷隆盛への心酔と鹿児島への内地留学生派遣と続いたのでした。じつは、遠く離れた庄内地方と鹿児島のつながりは、意外な事実として江戸時代前期からありました。いまも鹿児島市にあるデパート「山形屋」の濫觴ともいうべき呉服店の店主が庄内出身ということです。

東北の小京都・鶴岡市

山形市で登場した三島通庸は、庄内でも顔を出します。彼は、初代山形県令となる前に酒田県令に赴任しています。明治7年(1874)のことです。西郷一派の動きを注視していた大久保が、旧庄内藩の監視の役目で三島を送り込んだという説もあるようです。

庄内藩があった鶴岡市は、作家藤沢周平の故郷であり、彼の作品に出てくる海坂藩が庄内藩のモデルであることはつとに知られています。藤沢作品の『たそがれ清兵衛』や『蝉しぐれ』などの映画化にあたっては、鶴岡市が当然のごとくロケ地になっています。

鶴岡市内に入ると、まず目につくのが庄内藩の藩校であった致道館です。これは、東北で唯一現存する藩校建築物だそうです。私がここを見学したとき、館内で見つけた「ワッパ騒動」という初めて知る言葉を、ガイドとして門前に立っていた若い市役所職員に質問したところ、「知らない」との返事でした。「それじゃ、ガイドにならないよ」と笑ったことをいまでも覚えています。

が、かりに彼が知っていても、解説がたいへんだったろうと、後で知ることになります。

鶴岡市 庄内藩校・致道館

鶴岡市 致道博物館

ワッパとは、木で作った弁当箱のことです。納め過ぎた税金がワッパ1杯分返ってくるとして、明治6年(1873)から庄内地方一円で起こった農民一揆のことをいっているようです。この騒動が単純ではないのが、背景に戊辰戦争敗戦による懲罰として、庄内藩が転封される危機があったことです。転封の代替案として70万両もの献金策が浮上し、その一部負担に士族、農民も寄付を負わされたのです。結局は、転封も献金もなかったのですが、集めた寄付金の行方の問題も遠因となっていたのがワッパ騒動のようです。

さて、庄内といえば、商都・酒田市も興味深い話題が多いのですが、残念ながら紙面が尽きてしまいました。いつか続編執筆の機会があればなと思いつつ、ここで擱筆することにいたします。

(Up&Coming '21 新年号掲載)