前自由民主党副総裁
弁護士
高村 正彦
政務次官時代の実績から「日本のトラブルシューター」の異名
外務政務次官の時に「日本のトラブルシューター(紛争を調停・解決する人)」と言われた高村さんが外務大臣となって国連に来てくれた―。外務大臣就任(1998年)後に初めて国連を訪れた際、当時の国連大使・小和田恒氏が歓迎会の席上でこう氏を紹介。国連の一部関係者の間で自身がそのような見方をされていたということを知り、高村正彦さんは多少の照れと諧謔を交えて「日本でトラブルシューターと言っても、トラブルメーカーと間違えられかねない」と、微笑みます。
在ペルー日本大使公邸占拠事件とカストロ議長
高村さんが1996年に外務政務次官になって初めて直面した難題が、同年12月に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件。ペルーの首都リマで、天皇誕生日祝賀レセプションを開催中の日本大使公邸に左翼系武装組織MRTAが襲撃。日本はもとより各国からのゲストら多数が人質になりました。テロリストとは交渉しないという鉄則の下、当初から突入の構えを見せるフジモリ大統領に対し、MRTAは仲間の釈放や身代金などを要求。その一方で、日本が平和解決を訴えるなど、人質救出へのプロセスは複雑な制約が絡み難航します。
事件発生から1週間ほどして、高村さんは「平和解決の可能性は、テロリストらが崇拝しているであろうフィデル・カストロ議長に説得してもらう以外にない」と着想。数ヵ月後にフジモリ大統領がキューバへ「MRTAとの話し合いが付いた場合にテロリストたちの受け入れ先になって欲しい」旨頼みに行ったと伝えられたのを受け、氏は温めていた計画を実行に移そうと決意。まず平和解決に向けた話し合いの片方の当事者であるペルー政府に許可を得べく訪問。すると思いがけず、フジモリ大統領からも同様の働きかけを試み断られた経緯の説明があり、高村さんへの期待が示されました。
カストロ議長との会談で高村さんは、フジモリ大統領から託された通り「議長の電話によるテロリストらの説得」を依頼すると、「(電話では)世界から聞かれてしまう」と一蹴。ならば「何らかの影響力の行使を」と食い下がるも、「その影響力というのが困るのだ。話し合いが付いた段階での受け入れはする」との確証は得たものの、「仲介はしない」と重ねて断言。ところが、日本大使公邸で催されたラヘ副議長との夕食会に急きょ、カストロ議長も同席。寛いだ雰囲気のワイン・野球談義の後、議長は「これから仕事がある」と言い残し機嫌よくその場を退席しました。
結果的には1997年4月、ペルー軍・警察が突入。MRTAメンバーは殲滅され、突入部隊や人質の一部に死傷者が出たものの、日本人は全員救出されました。その際、砕けた口調で人質を解放し、キューバに来るよう促す、カストロ議長からMRTAに宛てた手紙が発見されます。高村さんは、前述の「仕事」がこの手紙のことだったと確信。後にロバイナ外相から確認を得た。実際にその頃からテロリスト側の士気が緩んできたことも窺われ、影響力を行使しないと公言しながら、秘密裡にそのような対応をしてくれていた議長の配慮に感謝の念を改めて述べます。
1997年3月19日 日本大使公邸占拠事件
カストロ国家評議会議長
インドネシアとカンボジアでの危機回避
1997年夏、インドネシアの通貨ルピアが急激に下落。通貨危機がアジア各国に波及する様相。国際通貨基金(IMF)がその支援に動くとともに、40項目に及ぶ改革案への合意を迫ります。ただ、署名しているスハルト大統領をIMFの専務理事が腕組して見下ろす構図のニュース映像に同国国民は憤激。世論のために大統領は合意に従い難い状況が出来。そこで橋本総理の特使として高村さんはインドネシアを訪問。日本の支援にも触れつつ、大統領にIMFとの約束の実行をと懸命に説得。大統領の「IMFとの40項目合意を断固実施する」との言質を得、外で待つ世界中のメディアにその旨を公表。事態の更なる悪化は防がれました。
またポル・ポト政権下で大きく傷ついたカンボジアは1993年、国連主導で初の総選挙を実施。第一党のラナリット殿下が第一首相、第二党のフン・セン氏が第二首相を務めるなど混乱は継続。2回目の総選挙(1998年)で決着が期待されたが、その前年の武力衝突の末、ラナリット氏が国外逃亡し有罪が確定。そのままラナリット氏抜きで選挙を実施しても国際社会から認められない雰囲気が醸成。そこで高村さんが両者とそれぞれ会い、説得。ラナリット氏が総選挙に参加できるようにするため「国王が恩赦を出すことにフン・セン首相が反対しない」旨の同意を得、国連監視下の2回目の総選挙が無事実施されるに至っています。
外交と国益
高村さんの考える外交の目的は、日本の中長期的な国益を果たすこと。具体的には、日本の平和と独立を守り、心豊かな国を作り、尊敬される国を作る、との3つの視点を掲げます。閣僚経験後、形式的には格下げとなる外務政務次官を受け入れたのは、「内政の失敗は一内閣が倒れれば足りるが、外交の失敗は一国を滅ぼす」との父の教えが大きい。その意味で、国会対応などは大臣が担ってくれ、閣僚経験のある政務次官として自由に行動できた。紛争解決に努めることは「情けは人の為ならず」で、国益にも繋がると説きます。
難題を解決するにはその目的を見定め、何がネックになるかを自分の頭で考えることが大事、と高村さんは指摘します。その際、現場に行くとよく分かる。行けない場合は現場を熟知する人に尋ねる。「そうでなく、バーチャルで現場を見るということも良いのでは」
(執筆:池野 隆)
高村正彦氏プロフィール
昭和17年生まれ。山口県出身。中央大学法学部を卒業後、弁護士として活躍。55年の衆院選で初当選し、経済企画庁長官、外相や法相、防衛相を歴任。平成24年の第二次安倍内閣誕生時から自民党副総裁を務め、集団的自衛権の限定行使容認や憲法改正等で党内議論を主導した政策通として知られている。29年に国会議員を引退されたが、30年10月までの党副総裁の要職につかれ、その通産在任日数は歴代第一位。現在は、自民党憲法改正推進本部の最高顧問として奔走されている。
著書
私の履歴書 振り子を真ん中に
著 高村正彦/発行 日本経済新聞出版社
現実的に合理的に何が国益かを考える。外交・安全保障で活躍してきた自民党副総裁が、自らの原点から、37年余の議員生活まで回顧。生々しい証言の数々から、政治の実相が現れる。
(Up&Coming '21 春の号掲載)
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