近代・明治時代になり廃藩置県が進められましたが、同じ加賀藩だった石川、富山両県での変遷は目まぐるしいものがありました。この原因は治水重視と道路重視の対立で、最終的には治水重視の富山県設置が明治16年に正式決定されました。因みに明治23~32年間の平均土木費(主として治水費)は県予算全体の60%でした。なお、現在全国で109水系が指定されていますが、狭い(4200km2で新潟県等の1/3です)県内に指定区間のある1級水系が5水系もある県は富山県だけです。
歴史時代以降、庄川の主流は野尻川→中村川→荒俣川と西方に移動しながら、中世末は千保川が主流でした。この頃1586年(天正13年)に庄川上流で大地震(天正地震)があり、扇頂部の庄川町金屋で山崩土砂が庄川の流れを止め、その堆積決壊による大災害が危惧されました。
しかし川中に小島があったので、当時の主流だった千保川と小さな支川だった中田川の二方に分れたので、その被害は少なかったようです。この中田川の川筋が現在の庄川筋になり、洪水の度に大きくなったのです。洪水後に小島のお蔭で洪水被害が少なかったとし、加賀藩主前田利長がこの小島に弁財天社を建立し水神として祀りましたが、その後の大出水のため本殿は右岸山麓に移転されました。
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