Vol.16
有田川物語

佐賀県


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有田川とは

有田川は、天童岩にとぐろを巻いた大蛇を鎮西八郎為朝が矢を射て退治したとの伝説がある黒髪山山麓を水源とする白川川と大谷を水源とする猿川とがJR有田駅付近で合流し、さらに河口付近で伊万里川と合流して伊万里湾に注ぐ長さ15km程の小さな二級河川である。

この有田川に関心を抱いたのは17世紀から19世紀にかけてヨーロッパの王侯貴族に非常に人気が高かった有田焼の運搬に利用されたのではないかと考えたからである。


図1  有田川流域図(狭域)


有田焼との関係

東西陶磁貿易史の最近の研究では、VOC(オランダ東インド会社)による公式貿易の送り状および仕訳帳の調査から、1650年から1757年までに約123万個の有田焼(肥前磁器)が輸出されたことが明らかにされている。VOC関係者が日本を含むアジアの商館から帰国する際に持ち帰った品々も含めると、もっと多くの数の有田焼が輸出されたと推定される。有田皿山で焼かれた有田焼をヨーロッパへ運び出すのには当時唯一許されていた長崎の出島に停泊しているオランダ船に積み込む必要があった。

陸路で約80kmある有田から長崎まで大量の荷を馬で運ぶのが容易でないことは想像するに難くない。大量の荷物の運搬に最適なのは言うまでもなく船である。小舟さえ利用することができない旧有田町の区間は馬で運搬し、小さな舟ではあるが利用できる現在の有田町の西有田区間は船で運搬し、伊万里でオランダ船に積み替えるのが最も効率的であると思われる。

陸路を運搬される焼き物は壊れることがないように、荷師と呼ばれる荷造り師によって当時最高の緩衝材であった稲藁を用いて丁寧に梱包された。このように梱包された焼き物はインド洋の荒波に翻弄されるオランダ船内でも壊れることは極めて稀であった。東インド会社によって有田焼がヨーロッパに運ばれたことは有田町にある香蘭社の資料館に展示されているVOCに関する資料で確認できる。


図2  有田川流域図(広域)


有田焼と鍋島焼

さて、有田焼と鍋島焼の違いであるが、鍋島焼は江戸時代主に伊万里の大川内山で、佐賀の鍋島藩が焼いていたものを言う。1650年代有田町の岩谷川内で焼かれたものを将軍家へ献上していたが、その後1660年頃には大川内山の日峰社下窯で焼かれた製品を献上するようになった。延宝年間(1673~1680年)ごろに大川内山で鍋島藩窯の組織や制度が確立し、献上品の製作が本格化したと考えられている。明治3年(1870年)に鍋島藩窯が廃止されるまで焼かれていた。鍋島藩窯は藩が直接運営し、分業などの仕組みが整っていたといわれている。鍋島焼を作る陶工は武士と同じように藩から給料を貰い、名字を名乗ることを許されていたが、管理する役所があり、出入り制限されるなど厳しい決まりがあったという。

藩が管理したのは、好みについてうるさい将軍や藩主といった人びとが使う器なので、将軍や藩主が気にいるような良い品物を陶工たちに焼かせるためであった。江戸時代の伊万里焼(古伊万里)の伝統を受け継いでいるのが有田焼であり、鍋島焼の伝統を受け継いでいるのが大川内山で焼かれている現代の「伊万里焼」である。

なお、「大蛇退治の伝説」鎮西八郎為朝が妖怪変化を退治したとの伝説は全国的な規模で伝えられているようである。


図3  伊万里焼

図4  伊萬里津大橋(伊万里川河口付近)にある古伊万里大壺

図5  鎮西八郎為朝






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(Up&Coming '23 盛夏号掲載)

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