東西陶磁貿易史の最近の研究では、VOC(オランダ東インド会社)による公式貿易の送り状および仕訳帳の調査から、1650年から1757年までに約123万個の有田焼(肥前磁器)が輸出されたことが明らかにされている。VOC関係者が日本を含むアジアの商館から帰国する際に持ち帰った品々も含めると、もっと多くの数の有田焼が輸出されたと推定される。有田皿山で焼かれた有田焼をヨーロッパへ運び出すのには当時唯一許されていた長崎の出島に停泊しているオランダ船に積み込む必要があった。
陸路で約80kmある有田から長崎まで大量の荷を馬で運ぶのが容易でないことは想像するに難くない。大量の荷物の運搬に最適なのは言うまでもなく船である。小舟さえ利用することができない旧有田町の区間は馬で運搬し、小さな舟ではあるが利用できる現在の有田町の西有田区間は船で運搬し、伊万里でオランダ船に積み替えるのが最も効率的であると思われる。
陸路を運搬される焼き物は壊れることがないように、荷師と呼ばれる荷造り師によって当時最高の緩衝材であった稲藁を用いて丁寧に梱包された。このように梱包された焼き物はインド洋の荒波に翻弄されるオランダ船内でも壊れることは極めて稀であった。東インド会社によって有田焼がヨーロッパに運ばれたことは有田町にある香蘭社の資料館に展示されているVOCに関する資料で確認できる。
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