コロナ禍のなかでの「東京2020オリンピック・パラリンピック大会」が幕を閉じた。
開会前の1月のNHK及び共同通信の世論調査では、中止か再延期を求める声が8割前後にも及んだが、やはりスポーツは面白いもので、小生の周囲でもオリンピックを肯定する声が次々と聞かれた。しかし― 「オリンピックは面白いねえ」と電話やメールで伝えてきた友人に対して、私は反論した。 「冗談じゃない。オリンピックが面白いのじゃない! スポーツが面白いのだ!」
たしかにオリンピックは、常日頃はスポーツに興味のない人たちもテレビの前に釘付けにする4年に1度の超ビッグ・イベントで、世界中のアスリートたちも、この日、このとき、この瞬間を目指して準備を整え、全力をぶつける大会だ。それだけに、奇蹟と思えるほどの素晴らしいシーンも数多く生まれた。
が、「オリンピックでは何が起こるかわかりません!」と絶叫したテレビのアナウンサーの言葉は正しいとは言えない。その「奇蹟的な素晴らしいシーン」は、オリンピック以外のワールドカップや世界選手権、それに国内のスポーツ大会でも、よく見られるシーンなのだ。
逆にオリンピックは、プレッシャーから自分の実力を発揮できなかった選手や、信じられないミスから敗北を喫してしまった選手たちも出た。が、それもまたワールドカップや世界選手権でも、頻繁に見られる光景である。
オリンピックはスポーツ競技を通して「世界平和」を構築ようと、フランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱し、創始されたものである。それは古代ギリシアで行われたオリンポスの祭典が、4年に1度のその期間中は戦争を中止したという故事に倣ったもので、現代のオリンピックも競技大会期間中のオリンピック休戦が国連で決議されている。
もちろんそれは、ほとんど守られたことのない「画餅に近い理想」ではあるのだが、なぜクーベルタンは「平和運動(平和の提唱)」の手段としてスポーツを選んだのか? 私にはその確信的な回答がわからなかった。スポーツでの「闘い」が「国家間の戦い」にかわる「代理戦争」として行われれば、それは「戦争よりも平和的な行為」と言えるだろう……という程度の認識しか持つことができなかったのだ。
が、今回の「東京2020」のパラリンピック大会で、数多くの障碍者スポーツ(パラ・スポーツ)を見て、なるほどスポーツには、まだまだ我々の気付かない大きな「平和的な価値」があることを認識できた。
テニスやバドミントンや卓球を健常者が行うと、(敵愾心を露骨に表すような)厳しく激しい攻撃や(意地悪で嫌味に思えるほどの)ライン際ギリギリを狙ったショットなどで、見ている人にも「敵」を倒す激しい気持ちを湧き起こすことがある。また、どうだ!まいったか!というような「優越感」を催すこともある。が、パラスポーツの車椅子テニスや車椅子バドミントンやパラ卓球では、見る人の感情に闘争心や攻撃心の火を点けることもなく、ただ見事な技術に感心させられるのだ。
ボッチャというパラスポーツ特有の競技(ジャックボールと呼ばれる白いボールに向かって青と赤のボールを投げ合い、その近さを競う競技)は、相手ボールを弾き出したり、相手の投げるコースを邪魔したりするゲームなのだが、見事な戦略と戦術やジャックボールにビターッと寄せる技術に感心させられ、結果的に日本人選手が優勝したときは見事だと思い嬉しかったが、競技中は嫌味な感情も勝敗の行方なども、完全に消えてしまっていた。
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