Vol.

16

スポーツ文化評論家 玉木 正之 (たまき まさゆき)
プロフィール
 1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、
映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

東京2020パラリンピックに感激! オリンピックは「平和の祭典」?
いや、パラスポーツ(障碍者スポーツ)こそクーベルタン男爵の理想「世界平和」を創出する要素がありそうだ。

コロナ禍のなかでの「東京2020オリンピック・パラリンピック大会」が幕を閉じた。

開会前の1月のNHK及び共同通信の世論調査では、中止か再延期を求める声が8割前後にも及んだが、やはりスポーツは面白いもので、小生の周囲でもオリンピックを肯定する声が次々と聞かれた。しかし―
「オリンピックは面白いねえ」と電話やメールで伝えてきた友人に対して、私は反論した。
「冗談じゃない。オリンピックが面白いのじゃない! スポーツが面白いのだ!」

たしかにオリンピックは、常日頃はスポーツに興味のない人たちもテレビの前に釘付けにする4年に1度の超ビッグ・イベントで、世界中のアスリートたちも、この日、このとき、この瞬間を目指して準備を整え、全力をぶつける大会だ。それだけに、奇蹟と思えるほどの素晴らしいシーンも数多く生まれた。

が、「オリンピックでは何が起こるかわかりません!」と絶叫したテレビのアナウンサーの言葉は正しいとは言えない。その「奇蹟的な素晴らしいシーン」は、オリンピック以外のワールドカップや世界選手権、それに国内のスポーツ大会でも、よく見られるシーンなのだ。

逆にオリンピックは、プレッシャーから自分の実力を発揮できなかった選手や、信じられないミスから敗北を喫してしまった選手たちも出た。が、それもまたワールドカップや世界選手権でも、頻繁に見られる光景である。

オリンピックはスポーツ競技を通して「世界平和」を構築ようと、フランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱し、創始されたものである。それは古代ギリシアで行われたオリンポスの祭典が、4年に1度のその期間中は戦争を中止したという故事に倣ったもので、現代のオリンピックも競技大会期間中のオリンピック休戦が国連で決議されている。

もちろんそれは、ほとんど守られたことのない「画餅に近い理想」ではあるのだが、なぜクーベルタンは「平和運動(平和の提唱)」の手段としてスポーツを選んだのか? 私にはその確信的な回答がわからなかった。スポーツでの「闘い」が「国家間の戦い」にかわる「代理戦争」として行われれば、それは「戦争よりも平和的な行為」と言えるだろう……という程度の認識しか持つことができなかったのだ。

が、今回の「東京2020」のパラリンピック大会で、数多くの障碍者スポーツ(パラ・スポーツ)を見て、なるほどスポーツには、まだまだ我々の気付かない大きな「平和的な価値」があることを認識できた。

テニスやバドミントンや卓球を健常者が行うと、(敵愾心を露骨に表すような)厳しく激しい攻撃や(意地悪で嫌味に思えるほどの)ライン際ギリギリを狙ったショットなどで、見ている人にも「敵」を倒す激しい気持ちを湧き起こすことがある。また、どうだ!まいったか!というような「優越感」を催すこともある。が、パラスポーツの車椅子テニスや車椅子バドミントンやパラ卓球では、見る人の感情に闘争心や攻撃心の火を点けることもなく、ただ見事な技術に感心させられるのだ。

ボッチャというパラスポーツ特有の競技(ジャックボールと呼ばれる白いボールに向かって青と赤のボールを投げ合い、その近さを競う競技)は、相手ボールを弾き出したり、相手の投げるコースを邪魔したりするゲームなのだが、見事な戦略と戦術やジャックボールにビターッと寄せる技術に感心させられ、結果的に日本人選手が優勝したときは見事だと思い嬉しかったが、競技中は嫌味な感情も勝敗の行方なども、完全に消えてしまっていた。

陸上や水泳などの個人競技では、障害の度合いによって同じ種目でも細かくランクが分かれ、義足でも両足義足、片足義足、膝上からか、膝下のみか、義手でも上腕欠損、下腕欠損、両腕欠損等に分かれ、さらに車椅子、視覚障害、知的障害……など、多くのカテゴリーが存在した。そしてどのレースでも、選手たちの見事なパフォーマンスに圧倒され、誰が「金メダル」で、誰が「世界一」なのかという結果など、重要なこととは思えなくなった。

そんなある日、某テレビ局のディレクターから電話がかかってきた。
「今回のパラリンピックでは、義足のランナーやジャンパーの世界新記録が続出で、このまま義足が進化すれば、障碍者が健常者の世界記録を追い抜きそうですが、そのことを、どう思われますか?」
「障碍者の記録が健常者の記録を抜くと、何か不都合なことでもあるの?」と問い返しながらも、このディレクター氏の気持ちもわからないでもなかった。

強力な反発力のある義足を身に付けたブレード・ランナーは、薬を使ったドーピングと同様、外部の力を利用した「肉体改造」では?と言いたいのだろう。しかし、ドーピングは競技能力の向上ために行うが、義足や義手や車椅子は日常生活でも必要とされている道具だ。その道具を競技用に改造するのは、健常者にとってのトレーニングと同じ。どんな道具も残された肉体と上手く合体しないと(強い反発力を操る筋力を身に付けないと)効果は期待できない。

そのような努力の結果、義足のランナーが健常者よりも速く走ることができたり、高く、遠くへ跳ぶこおができるようになれば、今度は健常者が「義足を使えないハンディキャップ」を負うことになるだけのことだ。

ならば健常者も、多種に分かれた身障者のカテゴリーの一部門の「健常者」としてパラリンピックに出場するのが相応しいだろう。

そのようにオリンピック・スポーツとパラリンピック・スポーツの合体が進むと、同じ競技でもカテゴリーによって「世界一」が数多く誕生し、誰が「本当の世界一(速い人、強い人、優れた人)」なのか、わからなくなる。つまり「絶対的な王者」は存在しなくなり、スポーツは「相対的な存在」になり、国別メダル数のランキングも意味がなくなり、スポーツは「勝敗」よりも「素晴らしい(奇蹟的な)瞬間」が注目されるようになる。そうなればスポーツは、戦争を否定するための「代理戦争」などではなく、誰もが「絶対的に平和的な人類の文化」と認識するようになるのでは……?

 
 


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(Up&Coming '21 秋の号掲載)

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