「のっけからクイズのようで恐縮しますが、日本の都道府県で市の数が4市と一番少ない県をご存知でしょうか。それは鳥取県(鳥取市、倉吉市、米子市、境港市)です。もし、このクイズが昭和時代に出されていたら、もう1県を答えなければいけません。それは、徳島県です。北からいえば、鳴門市、徳島市、小松島市、阿南市だけでした。それが平成の大合併により、今では吉野川沿いにいくつかの市がふえています。そんな中で、吉野川中流の位置に美馬市というのがあります。どういうわけか、天気予報で大雨情報がよく出る所です。
美馬市の地域は、江戸時代、阿波徳島藩の城代家老・稲田家の領有地でした。ところが、稲田家の本拠といえば、淡路島の洲本城でありました。すなわち美馬郡は稲田家の飛び地だったのです。本藩の蜂須賀家が徳島入りした時代から、稲田家の領土は半独立のように安堵されていたようです。ところが、幕末にいたって大問題が起こります。わき道となりますが、興味深い話なので、それをちょっと紹介してみます。
幕末の混乱期に稲田家側で分藩活動がはじまり、蜂須賀、稲田両家間の争いが起こります。この騒動を背景にした小説が、船山馨の『お登勢』です。昭和46年(1971)にはテレビドラマ化もされています。若き日の音無美紀子がお登勢役をやっていました。
騒動の決着がどうなったかといえば、明治の新時代にも持ち越され、結局、分藩はできたのですが、元の淡路島ではなく、稲田家の家臣たちは新政府によって北海道・静内へ移住させられたのです。これが、明治4年(1871)の廃藩置県の直前というのですから、稲田家にとっては憤懣やるかたなしです。この北海道での稲田家家臣の悲劇を描いた映画が、平成17年(2005)放映の『北の零年』です。主人公を吉永小百合が演じていましたね。もともと阿波徳島藩の地であった淡路島が現在、どうして兵庫県に属しているのか、その理由がこの稲田騒動にあったというのが容易に理解できます。
さて、現在の美馬市の話題に転じます。この市域内の吉野川の北側に脇町、南側に穴吹町というのがあり、その町を紹介したいと思います。
脇町は、伝統的建造物の保存地区に指定されている所なので、古い街並みを見学する観光バスツァーの客が関西方面からよく来ているようです。江戸時代の宿場背景としても使えるようで、あの水戸黄門のロケ地としても利用されたそうですよ。
脇町の通りに並ぶ建物には、特筆すべきものがあり、それがこの町を一層有名にしているのです。建物の多くに卯建(うだつ)があるのです。卯建とは、隣家との間の2階の境目に設ける袖壁のことで、卯(うさぎ)の耳の形のようなところから名づけられたもので、防火壁を目的としています。それに装飾も施されようになり多くの費用がかかるようになりました。阿波藍で財を成した脇町の商家たちが、競って立派な卯建を上げることになったところから、やがてそれが富のシンボルとなっていったようです。そこから、卯建のある家も建てられない、甲斐性のない人を指して「うだつが上がらない」という言葉ができたといいます。もっとも、卯建のある建物は、何も脇町の専売特許ではないので、この言葉の語源の地が脇町だという確固たる証拠はないでしょうが。
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脇町の街並み |
卯建のある旧商家 |
ところで、脇町へ行けばすぐ発見できますが、一見、卯建の街並みには似つかわしくない古い映画館のような建物がぽつんと立っています。昭和初期に建てられた脇町劇場という芝居小屋で、戦後は映画館として親しまれていたそうです。閉館となっている現在も建物が存立しているには理由があります。平成8年(1996)、この映画館および脇町を舞台に、山田洋次監督、西田敏行主演の映画『虹をつかむ男』が制作されたことがあります。映画および映画館維持に情熱を燃やす男の物語でした。その時のことを記念にして、映画中で使用された名称「オデオン座」をかかげて残しているのです。
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映画館・オデオン座 |
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吉野川は大河なので、中流付近でも大きな中洲があります。脇町から車で少し南下して中洲の中をまわっていると、突然のように光泉寺というお寺に出くわします。ここに、日本では唯一ではないかと思われるアルバート・アインシュタイン(1879-1945)による碑文があります。アインシュタインの来日時、世話になった医者である三宅速(はやり)博士への哀悼の手紙を記念したものです。先の戦争中、岡山にいる子息の所へ身を寄せていた三宅夫妻が空襲により亡くなったことへのアインシュタインからの哀悼文が刻まれています。三宅速の生まれ故郷がここ穴吹町だったのです。
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三宅博士の墓碑 |
三宅博士の墓碑のある光泉寺 |
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アインシュタインによる追悼文 |
大正11年(1922)秋、日本の野心的な出版社から招聘を受けてアインシュタインは来日しています。アインシュタイン夫妻がマルセーユから日本郵船の船で出航し(ちなみに、彼のノーベル物理学賞授賞のニュースが発せられたのは、この航海中であります)、船がアフリカ東海岸沖を進んでいるときのことです。アインシュタインに血便があったのです。腸の癌を疑ったエルザ婦人は混乱します。このとき、ドイツで開催されていた国際医学会に参加して帰国の途にあった1人の日本人医師がたまたま同船していました。その人こそ三宅速博士だったのです。
三宅の診察で腸癌ではなく、痔が原因と判明します。もし癌だったなら、アインシュタインは航海途中でUターンしたことでしょう。じつに、日本にとっては運命をわける血便だったわけです。
このときの縁で、アインシュタインと三宅の間には友情が生まれ、三宅が亡くなる(三宅は慶応4年生まれでアインシュタインより12歳年長)まで交流が続いたといいます。ちなみに、アインシュタインは、三宅に遅れること10年、1955年に亡くなっています。
アインシュタインの来日は、大正期に躍進してきた出版社・改造社からの招待で実現したものでした。そのときの日本の大騒動ぶりや彼から影響を受けた周囲の人たちを描いた本が『アインシュタイン・ショック』(金子務著、岩波現代文庫)です。この本、数あるアインシュタイン本の中でも本人自身よりも、むしろ周りの人たちに視線を向けたユニークな本です。さらに余談となりますが、アインシュタインの国内旅行に同行して彼の姿を描いていたのが漫画家の岡本一平です。すなわち岡本太郎の父親ですよ。
この本で印象に残った興味深い話を1つ紹介しておきましょう。アインシュタイン招聘の打ち合わせのため、ベルリンを訪れていた改造社の社員が、ある月夜にアインシュタイン夫妻と散歩に出かけたときのことです。アインシュタインの2番目の夫人であったエルザが煌々と輝いていた月を見て、突然、「日本にもあの月はあるの」と尋ねたといいます。20世紀に入り、はや四半世紀を迎えようとしている時期です。西欧の一婦人には後進国日本はいまだ未知にあふれた地域の印象だったようです。だが、日本人は彼女の夫君の言葉に助けられます。「ばかを言いなさんな。日本ではもっといい月が見られるよ
」とアインシュタインが返したといいます。
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