龍吉のことを話すには、彼のオヤジ殿のことから話さなければならないほど、その影響が強いのです。龍吉の前半生は父親の引いた路線を歩んだ形跡なのでした。龍吉の父親は、川田小一郎といいました。川田家は土佐藩の貧乏郷士であり、それが小一郎の立身出世欲に結びついています。彼は同郷の坂本竜馬より1歳年下の生れでしたが、倒幕運動に走ることもなく、むしろ藩内の能吏に活路を求める人間でした。
幕末のぎりぎりに土佐藩が討幕側に立ったため、維新劇場において小一郎がプラスイメージの端役を演ずる場面がありました。明治元年
(1868)、伊予の別子銅山を押さえる命令が新政府から土佐藩に出て、その役目が小一郎に回ってきました。別子銅山は後の住友財閥の屋台骨ともいうべき事業であり、これを取り上げられることは、住友家にとっては一大事でした。このとき、住友側からの懇願により、小一郎は新政府要人間を奔走して、住友の窮地を救ったのでした。川田小一郎という人は、後に岩崎弥太郎が三菱を創設するのを助けて、その大幹部となる人ですが、住友家でも恩人であったところがおもしろい経歴です。
小一郎には、こんな話も残っています。貧窮の身から大出世した人によく見られるケースで、出世につれ尊大になっていく人がいますが、彼もそのタイプでした。明治22年(1889)、彼は日銀総裁の就任を要請されます。この日銀第3代総裁時の話ですが、あるとき、大蔵大臣に用事ができました。このとき、自分から出向くのではなく、大蔵大臣を呼びつけたということです。おそらく、歴代の日銀総裁の中で、一番えらそうにしていた総裁だったと思います。
こういうオヤジ殿ですから、息子の龍吉は父親のくびきから離れられず、小一郎の命ずるままの前半の人生行路でした。三菱への入社も、英国への留学も小一郎の意向でした。そして、英国から帰国した龍吉が金髪の英国女性との結婚を希望するも、小一郎の断固反対で成就しませんでした。
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