なにもないとはどういうことか?
はじめに
未来学者レイ・カーツワイルは、2045年にはコンピューターが人間の知能を越えるシンギュラリティ(技術的特異点)を迎えると予言しています。
その説を受けて、人間の仕事がマシンに奪われると懸念する人もいますし、そうではなく、その時からようやく人類は奴隷のように働かなくても
生きていけるのだと期待している人もいます。
いずれにせよ、人々はシンギュラリティのような事態が起こるかもしれないと考えていますが、ここで一度立ち止まり、こう問うてみるのはどうでしょう。
そもそもマシンは、人を越えていったいどうしようというのか?マシンは死の概念を学べるでしょうか?生命を知るでしょうか?
人の営みは、生と死によって方向づけられています。生き物に目的はありません。種を残すというのは目的ではなく結果です。
生き物は種を残そうと考えて行動しているわけではなく、いま目の前の死を避け、ただ生存しようとしているだけです。
つまり、生物は、死を避け、存在し続けるという一つの運動と捉えることができるでしょう。
日々の小さな営みから、恋をし、子孫を残し、やがて死ぬまで、私たちの行動はすべて、生と死によって動機づけられています。
ここで考えてみましょう。
マシンは死を恐れるでしょうか?マシンが恋に落ちることや、子孫を残すことに意味を見出すでしょうか?それはかなり難しそうです。
死を恐れなければ、生にしがみつくことはありません。
生命は、可能な限り死を避け、生きながらえるために、さまざまなものを使い、考案し、発明し、文字通り死にものぐるいで生きてきました。
シンに死がないとすれば、生もありません。その状態で、どれだけの速度で、何を生み出そうと、それは人とは関係のないものでしょう。
我々とは無関係なところで、くるくると回っているだけの電子のループにしか過ぎません。
人の道具であるマシンが、人を越えていくら進もうと、我々にとっては無意味なのです。
未来に求められるのは、マシンのシンギュラリティではありません。マシンではなく、我々人類のアップデートのようなものであるはずです。
時間とは何か
いち早くCM制作にデジタル技術を適用し、いままでに数千本のCMを作ってきました。
風景を先に撮影してサーバーに蓄えておき、その上にフッテージ(素材)として商品やタレントをはめ込んでいく
これまで数十人のスタッフで何ヶ月もかかったCM制作を、数時間で仕上げるシステムを構築したのです。
CMの中では、過去の背景と、先日撮影したタレントが重ねられ、いま商品を紹介しています。
ここには大昔もつい先日もたったいまも、すべてが等価に存在しているのです。
このような経験を経て、CM制作とは時間のデザインなのだと気づいていきました。過去も未来も今もすべてはデザインできる。
つまり、時間は編集できるのです。では時間とはなんなのか。興味はそこに向かいました。
現在、セシウム原子からのマイクロ波によって1秒が決められていますが、こんなものは後づけの定義でしかありません。
もともとは天体の動きから時間を決めていたわけですが、誤差が生じるため、適当な定義をあとで決めたのです。
問題は、なぜ誤差が生じるのはいけないのか、ということです。もっと単純に、なぜ時計が必要なのか考えてみましょう。
世界に自分ひとりしかいないとすれば、時計は必要でしょうか?必要ありません。
それどころか時間の概念さえ必要ないでしょう。朝起きて、夜寝ればいいだけだからです。
そう考えていけば、時計がなぜ存在するのかわかります。時計が必要になるのは、二人以上がタイミングを合わせるときだけです。
ある人とある人がある場所で会うためには、時間を指定しなければならないからです。
つまり多くの人が共同生活や共同作業をしなければならなくなったとき、時計は生まれたのです。さて、動物に時間の概念はあるでしょうか?
素朴なタイミング合わせはできるでしょうが(たとえば狩りをするときなど)、時間の概念はおそらくないでしょう。
朝と夜、季節といった大きな繰り返しに対応できるだけで十分だからです。
このように考えていくと、いま我々を支配している時間とは、我々を管理するために作り出された単なるルールだということがわかってきます。
時間は人によって作られ、我々が後天的に学習した概念です。
自然界において、12時になったからといってお昼ご飯を食べる動物はいません。彼らはお腹が空いたら食べるのです。
つまり時間とは作り物であり、そもそもないのです。
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