江戸末期の1858年(安政5年)4月9日に飛越地震(跡津川断層による地震で、M=7.3程度)により、断層東端の鳶山(とんびやま)一帯が大崩壊し、常願寺川上流の湯川や真川を塞き止めましたので、下流は大洪水の恐怖に怯える日々を過ごしましたが、その2週間後の余震等で土石流となって決壊し、下流扇状地に壊滅的被害をもたらしました。
この時の崩壊土砂は4億m3で、このうち2億m3が下流に流出し、カルデラ内にまだ2億m3が残っていると推定されており、これ以来 常願寺川は名立たる荒廃河川となったのです 写真3。
写真4の巨大石はこの時に流下したのだと伝えられています。
飛越地震の後土砂流出災害が頻発したため、富山県は1906年(明治39年)から砂防工事に着手しましたが、その後1926年(大正15年)からは国直轄事業となりました。
一方1891年(明治24年)7月、大出水があり、下流でも県による本格的な改修事業が同年から開始されました。
計画策定にあたったのがオランダ人技師デ・レーケで、 1)堤防破堤の原因となっている農業用取水口の統合、 2)新川開削による白岩川との河口分離、 3)堤防・護岸の新設、補強等で、明治26年に完了しました。
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写真5 |
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写真3 大鳶山抜図(富山県立図書館所蔵) |
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写真4 |
その後昭和9年7月洪水を契機に、1936年(昭和11年)に国直轄河川として改修事業に着手し、扇状地の河川改修のほか、扇頂部上流で本宮及び岡田の両砂防ダムが河川事業として実施されました。以来上流から河口まで水系一貫の砂防・河川事業のモデルとして事業が実施されています。昭和24年から42年には、タワーエキスカベーターによる大規模な河床掘削も実施されました。
一方、従来木造枠に石詰だった水制に代わって考案されたのがコンクリート製のピストル水制や十字ブロック工法写真5で、これらの工法で現在天井川状態は殆ど解消されています。
また、この工法はその後全国各地の急流河川で採用されています。 開発者は6代富山工事事務所長の橋本規明氏で、その後氏は名古屋工業大学教授となり、昭和30年には紫綬褒章を受賞しました。
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